昭和47年7月28日 朝の御理解 (末永信太郎)
御理解第68節
神参りをするに、雨が降るから風が吹くからえらいと思うてはならぬ。その辛抱こそ、身に徳を受ける修行じゃ。いかにありがたそうに心経やお祓をあげても、心に真がなければ神にうそを言うも同然じゃ。拍手も、無理に大きな音をさせるにはおよばぬ。小さい音でも神には聞こえる。拝むにも、大声をだしたり節をつけたりせんでも、人にものを言うとおりに拝め。
御祈念をさせて頂くでも、いわゆる、その信心全体が、いわゆる一心でなからなければならない。一心を出すために、お互い信心のけいこをしておると言うても良いのです。今日、私頂きますことはね、一心というのは、我情我欲を捨てた時の心。我情我欲から離れた時の心が一心だ、と。私はこれを頂いて、なるほど、私どもの心の中に様々な心がある。
いわゆる、我情と言えば、まあ、自分の様々な思いということであろうし、まあ、人間の一つ、まあ、限りない浅ましいまでの欲望と、いう我欲ということになりましょうが。いよいよの時になってみて、あの、やはり我欲と言うですかね、あの、出て来るのに驚くんですよ。実際はないごとあるけれどもですね。
昨日は私、福岡の今度、西脇殿のお神様をお祭りする、例えば結婚式とか、または告別式なんかの時には、このお広前を使わんで、あちらを使うようになるわけですね。ですから、その、奉祭様式というようなものが、あの、ところがまだ、全然そこだけが決まってない訳なんです。
ほれで昨日、前から言うておられたのですけれども、昨日、私と秋永先生、それから委員長の久富正義さんと、そすと高橋さん、それに、あちらで文男先生が合流してから、4件か5件か、大きな立派な建築、そりゃあ、もうどこも見事な建築を見て歩きました。
その行きがけでしたけれど、途中で美味しいソバがあるから、お昼してませんでしたから、皆さんがお昼させて頂こう、と。ほれで、まあ、美味しいソバを途中で頂きました。まあ、帰り道でしたけれども、帰る時でしたけれど、あのこう、お金を皆さんが払うとこ、カウンターのところに、こう、カゴん中にマッチを入れてある。どうぞ、皆さんお持ち帰り下さいと言わんばかりにおいてある。
だから、タバコでも飲む人はね、それがこう、頂いて行くわけなんですけれども。なかなか、とても格好のいいマッチでしたから、私が、それをなら、一つこれもらって行こう、と。アンタも、したらもう、皆さん、皆もうもらっておりました。だから、(せっかく?)私、一つもらって帰った。やっぱそういう時にですね、これば私がもらって行ってから、とにかくもらって行かにゃ損というものが中にあるようですね、たったマッチいっちょで、内容をようと検討すると。何かの足しになるだろう、と。
まあ、本当に自分のように恥ずかしい話ですけれどもね。そのマッチ一つの中にね、心を、自分では気がついてないけれども、汚すような心の状態があるということ。まあ、これも我欲の一つだと思いますね。タバコでも吸えば、また別ですよ。ね。私どもは、ほれはもう、勝手にマッチをいっちょ、その持って、なら、なるほど、それは足しになりますよ、それだけ。けれども、それだけ足しになったから、どうということはない。ただんモンな、何でんもろうちこう、ちゅうわけなんです。ね。
もう、本当に厳密に申しまして、私どもの心の中に、そうした我情があり、我欲がないはずのようなものがあるということを思います。ですから、そういう心がです、ね、我情我欲を捨てた時の心こそがです、一心だ、と。だから、一心ということは、ある意味において無心ということも言えるですね。
心の中に何もない。ね。私は、一心の解釈の最高のもんだと思うですね、我情我欲を離れた心が一心だということ。ね。一心不乱と、こう申します。例えば、今日、68節のこの、辛抱こそ身に徳を受ける修行じゃという、その一つの前提になるところですね。
いかにありがたそうに心経や大払いをあげても、心に真がなければ神に嘘を言うも同然じゃ、と。拍手も無理に大きな音を立てるにはおよばんと、させるにはおよばん、と。けれども、皆さんが御祈念をしておられる時の姿を見るとですね、もう、ぶつぶつ言いながら、御祈念をなさっておられる。
なるほど、神様には声をたてんでも、聞こえようけれども、それこそ、それを出す力がないのでしょうが、出すことがきついとでしょうが。ね。その方が楽なんでしょうが。ぶつぶつ言いよる人もありゃ、言いよらん人もある。( )。
ね、私は、今日はここんところを本当に分かって頂きたいですね。なるほど、声を立てなくても、思うただけでも神様には通うのです。けれども、なるほど大きな声をすることはいらんからと言うてから、(たまなのはらに神様おりますう)ち言うてから、言いよる皆さんの、あの、御祈念をしておられる姿はもう、後ろから行ってから、コラコラち言うて、まちっとしっかりやらんかち言って、言いたいような気がするんです、こっから私が皆さんの御祈念ぶりを見よってから。
それは、だから、ね、そことこことを間違えちゃいかんのですよ。なるほど、声を立てんでもいい。けれども、皆さんの心がそのま一つ向こうにある我情我欲を、言うなら超越した心でです、ジーッと、例えば、なら私が四時から五時までの御祈念なんかは、もう、えへん(咳)とも、言うなら言わんくらいです。
けれども、私の場合はもう、その心の中に思いよることが、ずうっと神様に通いよる時なんです、眠気段じゃありゃしません。皆さんが御祈念をしておられるのは、全然、神様に通いよるとは思われない。ね。これは、どうでも本気でね、大きな声で腹の底から御祈念をさせて頂く、私はものを身に付かなければいけないて、お互いが女子でも男でも。
ほんな気違いのごたる声で、こうやることはいらんて。ね。心の底から、自分でもその自分の底から出て来る、例えば声に酔うような私は御祈念の言葉といったようなものでもね、せっかく貴方、お参りをして来とって、眠むり半分で御祈念をして何になるですか。
言うなら、もう大きな声を出すときつかけんで、汗ん出るけんでち言うてから、(そりゃ、そう言いよる?)ようなことで、例えば神様に聞こえると思うですか。いらんこつやら、他んこつばっかり考えてから、それが浮かんで来るです、ソロソロ言いよると。皆さん一つ、あの、大きな声はなかなか出しにくいもんです。先唱なんかて、なかなか、あの、やっぱり本当に腹を決めなきゃ出来るこっじゃないですからね、皆さんの一人ひとりが先唱させて頂いておるつもりでですね、御祈念をなさらなきゃいけんです。
でないと、いわゆる、一心が出らんのです。私は、これはいつも思う、もう、いつも思う、あの、素晴らしいと思うことは、永瀬さんの御祈念です。ね。例えば、なら、末永さん辺りがあげよると、それはもう、心の底から(地獄んごたる?)声出ちから一生懸命やる、有り難いです。けれども、その、それがあげたりあげなかったり。眠か時には、もう、いっちょん声にしよらんもん。
ところが、永瀬さん辺りのは、もう、いつでも、もう、それこそ朗々としてと言うですか。あの、特にね、拝詞なんかをされる時の永瀬さんの声を聞いておりますと、こっちも同じ心にならせて頂けるような気がするです。もう、そのまま神様にずうっとこう、入って行っとるな気がするです。ね。
言うなら、一心不乱に御祈念をさせておる、その一時だけでもです、いわゆる、我情もなからなければ我欲もない。ただ、訳はわからん、大払いなんかの意味なんか分かりゃせんでもいいのです。ね。もう、いいですからです、ね、一心不乱にそれを一生懸命に奏上させて頂いておる時こそが、言うならば、一心。ね。
して、その先にです、ね、黙って思うただけでも、神様に通うようなおかげを頂くことのための稽古なのですから、信心は。それに、神様と交流する一つの手立てと言われるなら、ね、拝み言葉ですよ、いわゆる。ね。天津祝詞でも大払いでも、拝詞でも、ね、御霊様の前では祖先賛辞でも、ね、御霊様なり、神様との交流する一つの手立てなんです。なるほど、交流するはずだ。これだけ一生懸命に一心不乱で奏上するならば、通うはずだと思います。しかもそのね、その一時だけなりともです、ね、いわゆる、我情のない我欲のない一心の、だから、一生懸命に腹の底からです、あげなければ皆さんのあれば見ておるとですね、本当にあの、眠り半分のような感じです。
でなかったら、きつかけんであげよらんという感じです。ぶつぶつぶつ言いよる、と。ね。自分の御祈念というものをです、私は本気で今日はね、やはり、大きな声を出されるそこから、ね、節をつけたり、大きな声を出さんでも神には聞こえる、と。その、もう、黙っておっても聞こえる、黙っておっても通じよるという信心は、これは私の体験から言うとですね、もう、相当なこの御祈念修行でもした後でなかなきゃ、出けるこっじゃなかです。ね。皆さん、ね、今こうして一時の夏の御祈念があっとりますから、あん時ならおかしゅうないでしょう、一生懸命あげるとが。
だから、あの、大きな声を出しちゃおかしかと、隣の人に気の毒なんてんちゅうものは、もう、とにかく自分が一人であげて、人の声は聞こえんぐらいに一生懸命、すとあげるけいこをなさるということがね、それがそのまま、一心なんです。ね。
皆があげよるとに、後からソロオッとつけちから、ぶつぶつぶつ言いよる。はあ、もうどうでも、私はもう、これは本当にここで皆さんが信心のけいこに通うて来るのですから、あの、御祈念の時ぐらいはね、なぜかって、ここはもう、その間に中間なんかで御祈念なんかて出けませんもんね。皆がほとんどテープを聞いておられたり、御理解を頂いておられるから、そういう時に、んなら、その一生懸命、なら、大払いでも奏上するとか、拝詞でも唱えるとかということを、普通は出けませんから、せめて、こうやって一同に集まって、御祈念をさせて頂く時だけなりともです、もう本気で一生懸命、ひとつあげるけいこをして下さい。
そん時にですね、皆さんが気が付くです。はあ、これが一心だな、と。歌のけいこをするような気持ちでですね、一つ発声法のけいこをして下さい。もう、誰んおらんところでいっちょ(火の恨みに、あれは、火の恨み?)するだけじゃいかんですもんね。やっぱ、腹の底からこう、上がって来るのじゃなかなけりゃ。
だから、一つの発声法が、けいこがいるです。とてもね、皆さんが御祈念の時、黙って皆さんの大払いどん聞きよってから、神様に一心が通ずるはずない、皆さんの場合ですよ。ね。皆さん程度の信心で、通うはずは絶対ないです。ね。
本当に我欲がない、我欲はないというような、自分でもそれを感じるくらいな心の状態の時です、ね、はあ、と、それこそ、これは、なら私が一時間こう、御神前に座らせて頂いてから、もう本当のその、思うこと、口の中にもぞもぞと言うたことが、いちいち神様に響きよるな、受けとって下さっておるな、通いよるなというね、おかげを頂くようになってからのことなんです、大きな声を出すことはいらんということは。
と言うてです、なら、人の迷惑、例えばね、皆さんがお話をなさりよる時に、ね、また、御理解を頂きよりなさる時に、もう一生懸命て、これなんかはいけません。けれども貴方、これはもう、どげん天下晴れて、どんな大きな声を出しても良いというのが、なら、朝の御祈念の一時でしょうもん。女子だからおかしか、そげなことがあるはずがありませんて。
私は永瀬さんの声の、あの、今日は眠っちゃおらんじゃろうかちゅうごたる風な、モヤモヤ言いよんなさるところ、まあ、今までかつて聞いたことがない。もう、いつも際立って、あの、一生懸命あげておられる。今日もそれを特に、あの、感じたんです私が。そしたら、この68節。しかも、私がんなら、神様に頂いておることはです、一心とは我情我欲を捨てた時の心、と言うのですから、なら、一生懸命に、もう一心不乱に大払いでも奏上させておる、その一時こそがです、私どもが一心の時だということになるでしょう。
だから、その一心の心で、なら願うことを願う、また、いわゆる御祈念の時間。これはね、本当にあの、実を言うたら難しいです。私、家の若先生が朝の御祈念の時に、そこで黙って、ね、朝眠かつを起きて来てですから、もう、声も出らんとですよ、ここでは。だから、黙ってこう、頭下げてツーッと行った方がとても楽なんです。けれどもね・・・(テープ切れ、B面へ)
・・・そんな思うとる訳じゃなかろうばってん、もう、はあ、もうていげい、もう、ほんなこて、もう、10分も15分も( )しゃったけん、もう、ていげい済んどろうと思うちから、すと、またもう、帰って来てから、またいっちょ忘れとりましたちゅうごたる風で、驚きをしなさる人がありますけれどね。もう、本当を言うたらです、言葉に出されて一生懸命のおかげを頂きまして有り難うございますが、一言出たら本当に出たらいいです。ね。
けれども、んなら、切実に願わなければならないこと、お礼を申し上げたい時には、必ず出るでしょうが。ね。そういうものがね、御祈念の私は姿にならなければいけないと思う。もう、皆さんの御祈念ぶりじゃおかげの頂けん、これだけでも分かるです。ね。モゾモゾモゾモゾ、大払いば腹の底からあげたことなかちゅう人が沢山あるです、もう合楽には。御祈念のことなんか今まで申しませんで、今日だけは、私はそれを実感しました。そして、神様に頂くことの一心とはということがですたい、一心を出すためにも一生懸命にあげなきゃいけないて、中途半端じゃいかんて。ね。
だから、これだけの人数が一生懸命であげたら、本当ここが割れるごたる、やはり声になって来なければいけないです。(大唱和?大昭和?大笑話?)にならなきゃいけんです。ね。しかも、んなら、百人なら百人の者がです、一生懸命に御造営成就のことを例えば願うとしてご覧なさい。もう、これだけでも、大変な祈りの力というものをですね、私は感じます。
なるほど、言葉に出さんでもええ。ね。大きな声をすることもいらん。けれども、本当に自分の拍手の一つのこの音一つにもですね、自分の心、はあ、本当に良い音の拍手が打てた時には気持ちがいいでしょう。もう、それが神様へ通うとですよ。ね。私どもは我情我欲でいっぱいに、言うなら汚れはてておりますけれども。ね。せめて、拍手打って神様に一度向かうて、本気で神様に天津祝詞、大払い、ね、または拝詞天地書附を奏上させて頂く、そのことが、もう一生懸命で唱えられる。ね。
その一時こそです、ね、私どもが、なら一心の時だ、と。そして、その一心になるということが、いかに有り難いことか、と。もう、永瀬さん辺りは、それを体験済みだと思いますね。だから、もう、心の底から一生懸命あげなきゃおられなさらないのじゃないでしょうか。眠い時には、モソモソモソ、自分の気分のいい時には、もう(天でわれがでを?)叩くような声を出す、これじゃいかんです。ね。
だから、いつもかつも(歌いよる?)。せめて御祈念の時にです、御祈念に、ここに参加した時だけはです、もう、隣の人に気がねも何もいらん、一生懸命で私はあげさせて頂かなければね。それには、やはり一つ、発声のけいこもなさらなきゃいけません。ね。なかなか出らんて。ね。
おうたいなんかでも、けいこした人はそれが分かりましょう。ね。そすと、本当にそれが出るようになると、その声を出さなければ、中途半端で御祈念したごとない、ということになるです。ね。そして、皆さんの心の中に、それこそ我情もなければ我欲もないというような心の状態。言うならば、私も、今も申しますように、我情がある我欲があるて。ね。
たったこのマッチ一つを持って帰ってから何になるか、と思うけれども、心の底に、やっぱ何かの足しになるというようなものがあるからこそ、それを持って帰って、あんたどんもいっちょずつもろうち帰らんのちゅうようなことを言うわけなん。ね、ですから、私がんなら、こうして朝に出て来ておる時には、そういうようなものが、あの例えば三十分間なら三十分間の間に、そういうものが例えばあるなら、あることをお詫びをさせてもらい、取り除かせて頂いて、御神前に額づいたが最後、もう、そのまま神様と通うような心の状態というものを御神前に持って行ってからなら、行けるようになったらです、皆さん、もう黙って御祈念していいです。ね。
もう、そんかわり、どげん、んなら、たとえ黙っとったっちゃ、眠気どんがつくはずはありません。もう、何と言うですかね、頭はもういよいよさいて来ます、心はいよいよ清まって行きます。ジーッと、それであって初めて通う。それであって初めて、思うただけでも、小さい声でも聞こえると仰るのは、それなんです。だから、ここんところに大きな声することはいらんからと言うて、んなら、皆さんが、ね、ソロソロとボソボソと御祈念をなさる。それは、皆さんが出すときつかけんでしょうが。ね。
大きな声出しよったら、汗が出るからでしょうが。ね。本当にもう、こっから皆さんの御祈念なさっとられてから、一生懸命あげよらんと、何しゃくのようなものを持ってから、パーンとこう、叩いて回りたいような気がするんですよ、本当に。何のため、朝の五時の御祈念に参って来とんのち言おうごたる。
それじゃったら、もう、御理解の時だけでいいじゃない。せっかく間に合うようにお参りをさせて頂いておるのであるから。ね。今日は68節の、言うならばいつも頂きますね、その辛抱こそ身に徳を受ける修行じゃと、その辛抱やら徳を受ける修行の前提としてですね、私はここんところとは反対のことを今日は申しましたですね。大きな声やら、わざわざ大きな拍手を打つことはいらん、と。けれども、皆さんのはね、もうきつかけんで、大きな拍手は打ちよらん、と。楽なから、ソロソロ大払いあげよるというであったら、神様に言うなら、それが聞こえるはずがないですもん。ね。いや、神様に聞こえはしましょうけれども、神様がそれに受け返事をして下さるようなおかげに繋がらないのです。ね。
きつかろうばってん、一生懸命。そして、あげさせて頂くことがね、やはり楽しゅうならにゃ。一つ、今日はもう、誰んおらんとこで、いっちょ(ひのあらび?)してから大払いばあぐる稽古をひとつなさってご覧なさい。はあ、自分もこういう声が出るという、その声で神様に、ね、聞き届けて頂く、一生懸命。
これは、その、一番その、徳を受けるとか、その辛抱とかという、その前提になるところのようですね。例えば、ここんところで、なら、声を出すことはいらんとか、小さい拍手でもいいとかと、ここには言うておられるけれども、これは、ね、本当に神様に聞き届けて頂けるほどしのものを頂いてからのことであって。ね。ここに一心を出さなければと思うなら、一心を出して御祈念をしたい。ね。
その御祈念をしておる一時こそ、ね、我情もなければ我欲もない。言うなら、あっても、それが一生懸命の大払いでもう、祓われてしまうような気がする。ね。そういう心をです、なら私どもが育てて行こうとするために、こうして御理解を頂くわけです。ね。
だから、育てよう、ただお話を頂いてから、なるほど、なるほどと言うとった分じゃ、その一心が出とらんし、真が出てないものを育て様がない、ただ聞いただけ。ね。御祈念によって、先ず自分のその一心というものを出しておいて、その一心のこの心をです、御理解を頂いて育てるということにならせてもらう。
一心とは、ね、自分の心から我情我欲を外した時のことこそが一心。だから、一心とは、もう、他の心が一つもないという時です。なるほど、これが一心です。いや、むしろ、もう無心と思われるくらいです、一心とは。ね。なら、そういうような状態がです、御祈念を一生懸命させて頂く時には必ず出て来るです。神様へ向けて一生懸命、大払いを奏上させてもらっておる時など。ね。
特に、あの拝詞なんかていうのは、皆に分かるような言葉で綴られておりますでしょう。ね。世界真の例えば平和を、例えば祈らせて頂くでもです、もう本当にその、一生懸命の無心の心で世界真の平和を祈れれる。ね。ただ唱え言葉だけに終わらすんじゃない。それを本当に、自分のこの一心で、そのことは唱えておるというおかげを頂いたら、ね、御祈念を頂いた後の御理解が、一段とまた有り難くなるだろう。
例えば、大払いをそれぞれさせて頂くでも、御本部辺りで一緒にあげますと、やっぱり大阪風とか九州風は違いますよね。また、九州の中でも、なら、合楽風というのは、また違うんです。だからその、やはり歌いの稽古をするとと同じことですからね、いわば、合楽流のね、発声法、合楽流の拝み方。ね。それをまあ、また、みょうな節をつけてから皆さんがやんなさると、これまた、邪魔になりますからね。
どうぞ、合楽の一つのリズムにね、合うた発声法。ね。それを、ひとつ稽古して頂いて。ね。本気での御祈念、その本気での御祈念、そこから生まれて来る、はあ、これが一心というものであろうか、という心の状態を御理解によって、いよいよ確かなものにして行くというような、ね、だから、御理解を頂く前提。
まあ、言うなら小さい声でも良い。ね。思うただけでも神様には通うというほどしのおかげを頂くための前提としてのね、今日は、まあ、御理解だったと思うんです。どうぞ。